作品に宿る命

カート・ヴォネガット『スローターハウス5』論:無数の死と「そういうものだ」が問い直す生と時間の不条理

Tags: カート・ヴォネガット, スローターハウス5, 戦争文学, 死生観, 時間の哲学, 不条理

本稿では、カート・ヴォネガットによる小説『スローターハウス5』を考察の対象といたします。この作品は、第二次世界大戦中のドレスデン爆撃の体験を核に据えながら、時間軸が錯綜する語り口と、異星人トラルファマドール星人の視点を取り入れることで、戦争の悲惨さと人間の「死」という普遍的な出来事を、独特かつ不条理な筆致で描いています。本稿では、この作品が描く無数の死、そして作品全体に繰り返し現れる「そういうものだ(So it goes)」というフレーズが、私たち自身の生や時間、そして死に対する認識にどのような影響を与えうるのかを深く掘り下げてまいります。

戦争がもたらす無意味な死と時間の崩壊

『スローターハウス5』の最も強烈な印象の一つは、第二次世界大戦末期のドレスデン爆撃の凄まじい描写です。この空襲によって、多くの非戦闘員が無差別に命を落としました。主人公であるビリー・ピルグリムは、その凄惨な光景を生き延びますが、その体験は彼の精神に深い影響を与え、結果として彼は時間軸を行き来するようになります。

ここで描かれる死は、英雄的な最期や尊厳ある別れといったものとは無縁です。それは突然に、大量に、そして何よりも無意味に訪れます。戦争という巨大な不条理の中で、個々の命はあまりにも容易く、そして取るに足らないものとして消滅していきます。このような無数の死の描写は、読者に対し、生がどれほど脆く、予測不能な終わりを迎えうるかという厳しい現実を突きつけます。それは、計画や目標、あるいは価値観といったものが、一瞬にして無効化されうる世界があることを示し、私たちの築き上げた人生の意味が、外部の暴力によっていかに容易く破壊されうるかという根源的な問いを投げかけます。

さらに、ビリーが経験する時間の混乱は、この無意味な死の描写を一層際立たせます。彼は過去、現在、未来を自由に(あるいは無作為に)行き来します。この時間の攪乱は、直線的な因果関係や目的論的な時間の流れの中で意味を見出そうとする人間の営みを否定するかのようです。死がある瞬間に発生しても、ビリーの意識の中ではその瞬間は固定された過去として常に存在し続けます。この時間の捉え方は、後述するトラルファマドール星人の時間観とも深く結びついています。

トラルファマドール星人の時間観と「そういうものだ」

物語に登場するトラルファマドール星人は、四次元的な存在であり、時間を直線的にではなく、全ての瞬間が同時に存在するものとして捉えています。彼らにとって、生や死は時間の流れの中の一点に過ぎず、全ての瞬間は宇宙の永遠性の中で同時に存在しています。彼らの視点から見れば、死は終わりではなく、単にその特定の瞬間へのアクセスができなくなること、あるいは、永遠に存在する無数の瞬間の中の一つとして固定されることに過ぎません。

トラルファマドール星人は、死を目にするたびに「そういうものだ(So it goes)」と呟きます。このフレーズは作品全体で百回以上繰り返され、戦場の死、事故死、病死、果てはバナナの皮を踏んで転んだ人の転倒にすら付随します。この繰り返しは、死が生命にとって遍在する、避けようのない現象であることを強調します。しかし、「そういうものだ」という言葉は、単なる事実の確認に留まりません。そこには、抗いようのない摂理に対する諦め、あるいは全ての瞬間が同時に存在するという高次元の視点からの達観、さらには人間の有限な視点からは理解し難い宇宙の真理への畏敬のようなものが含まれているのかもしれません。

このフレーズは、読者に対して死を受け入れること、あるいは死に対して感情的な動揺を過度に示すことの無意味さを静かに示唆しているように見えます。トラルファマドール星人の視点に立てば、愛する者の死も、自らの死も、宇宙の時間のタペストリーの一部に過ぎません。この極めて非人間的な、しかしある種の宇宙的な視点は、読者が自身の死生観を相対化し、より大きな時間の流れや存在の普遍性の中で生と死を位置づけ直すきっかけを与える可能性があります。

「そういうものだ」が問い直す人生観

「そういうものだ」というフレーズが繰り返し提示されることは、単に死を達観した視点で描く以上の意味を持ちます。それは、人生における喜びや悲しみ、成功や失敗といった出来事に対しても、どこか距離を置いて受け入れる姿勢を促します。トラルファマドール星人の決定論的な宇宙において、人間の自由意志や個々の努力が持つ意味は希薄になります。もし全ての瞬間が既に決定されており、同時に存在するのであれば、過去を悔やんだり、未来を過度に憂いたりすることは無意味になります。重要なのは「それぞれの瞬間をあるがままに受け入れること」であるかのように思えてきます。

このような考え方は、人間の能動的な生の意味を問い直します。もし全てが決まっているなら、努力する意味はあるのか?しかし、ヴォネガットは単に虚無主義を唱えているわけではありません。むしろ、抗いようのない悲惨な現実(戦争)の中で、人間がいかにして生きていくか、死という普遍的な出来事にどう向き合うかという問いを、「そういうものだ」という言葉の反復を通して投げかけているのです。

このフレーズは、読者に自身の人生における困難や悲劇に直面した際に、どのように反応すべきかについて内省を促します。感情的に取り乱す代わりに、あるいは無力感に打ちひしがれる代わりに、「そういうものだ」と静かに受け入れることは、ある種の精神的な安定をもたらすかもしれません。しかし、それは単なる諦めではなく、抗えない現実の中で、それでもなお可能な限り「良い瞬間」を探し求めること、あるいは目の前の瞬間に集中することの重要性を示唆しているとも解釈できます。トラルファマドール星人が美しく、良い瞬間を鑑賞することに価値を置くように、人間の生もまた、抗いがたい死や不条理の中で、かけがえのない瞬間を積み重ねていくことに意味を見出すのかもしれません。

結論

カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』は、戦争がもたらす無数の死という極限的な状況を、時間の混乱と異星人の独特な視点を通して描くことで、私たち自身の生と死、そして時間に対する認識を根底から揺さぶる作品です。ドレスデン爆撃で描かれる無意味な大量死は、生の脆弱さと世界の不条理を強烈に印象づけます。一方、トラルファマドール星人の時間観と彼らが口にする「そういうものだ」というフレーズは、死という出来事を感情的な重みから解放し、遍在する普遍的な現象として捉え直す視点を提供します。

「そういうものだ」という言葉は、単なる諦念ではなく、抗いがたい現実や避けられない死に対するある種の受容、そして全ての瞬間が宇宙の永遠性の中で同時に存在するという達観を示唆しています。この視点は、読者に対し、自身の人生における困難や悲劇、そして最も避けがたい出来事である「死」に対して、どのように向き合うべきかという深い内省を促します。直線的な時間の中で、目的や意味を探し求めがちな私たち人間にとって、『スローターハウス5』が提示する時間の非線形性と死の普遍性は、自身の有限な生をどのように捉え直し、限られた時間の中でいかなる瞬間に価値を見出すかという、根源的な問いを投げかけていると言えるでしょう。作品を読み終えた後も、「そういうものだ」というフレーズは静かに心に残り、人生の様々な局面に直面した際に、私たちの思考に微かな、しかし確かな影響を与え続けることでしょう。