作品に宿る命

シェイクスピア『ハムレット』論:「生きるべきか、死ぬべきか」の問いと多様な死が問い直す生の意味

Tags: シェイクスピア, ハムレット, 死, 生, 哲学, 悲劇, 文学

本稿では、ウィリアム・シェイクスピアの五幕の悲劇『ハムレット』を取り上げ、作品中に描かれる「死」の多様性と、主人公ハムレットの有名な独白「生きるべきか、死ぬべきか(To be, or not to be)」が、私たちの人生観にどのような示唆を与えるかを考察します。

『ハムレット』は、デンマーク王子ハムレットが父王を毒殺し母を誘惑した叔父クローディアスへの復讐を誓う物語ですが、単なる復讐譚に留まりません。劇中には、暗殺、自殺、偶発的な事故死、毒殺など、様々な形での死が描かれ、それぞれの死が異なる文脈と意味合いを持っています。これらの死は、登場人物たちの性格、動機、そして運命を鮮やかに浮かび上がらせると同時に、人間の生のはかなさ、予測不能性、そして倫理的な選択の難しさを観る者、読む者に突きつけます。

『ハムレット』における多様な死とその意味

『ハムレット』に登場する死は、それぞれが人間の生の一断面を映し出しています。例えば、父王の死は物語の発端であり、不正義による不慮の死として描かれます。宰相ポローニアスの死は、ハムレットの早まった行動による偶発的な悲劇であり、彼の狂気や迷走の一側面を強調します。オフィーリアの死は、狂気の果ての自死とも事故死とも解釈でき、愛する者の死と自身の正気を失った絶望がもたらした悲劇として、読者に深い哀しみを与えます。王妃ガートルードの死は、夫クローディアスによる毒殺という皮肉な最期であり、彼女自身の弱さや状況への盲目さが招いた結果とも言えます。そして、クローディアス、レアティーズ、そしてハムレット自身の死は、復讐という連鎖がもたらした避けがたい結末として描かれます。

これらの多様な死の描写は、死が必ずしも一つの意味を持つわけではないことを示唆しています。死は、目的のために行使される場合もあれば、意図せず訪れる場合もあり、自らの選択による場合もあれば、他者によって強要される場合もあります。それぞれの死が、残された人々に異なる影響を与え、物語全体の悲劇性を深めていきます。死の多様な現れは、人間の生が様々な要因(他者の行動、偶然、自らの選択、状況)によって左右され、そしていつか必ず終わりを迎えるという現実を容赦なく突きつけます。

「生きるべきか、死ぬべきか」の問いが問い直す生

劇中最も有名なセリフの一つ、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ(To be, or not to be: that is the question)」は、ハムレットが自身の存在そのもの、そして行動することとしないことの選択について深く内省する独白です。この問いは、単に復讐を行うかどうか、あるいは自殺を選ぶかどうかの問題に留まりません。これは、苦悩に満ちた「生」という状態を耐え忍ぶべきか、あるいは未知なる「死」という状態に飛び込むべきか、という、人間の存在の根本に関わる哲学的な問いかけです。

ハムレットは、生を「苦難の海」と表現し、死を「眠り」に例えます。しかし、その眠りの先に「夢」があるのではないか、未知なる恐怖が待っているのではないかという恐れが、彼を行動することを躊躇させます。この独白は、人間が直面する選択の困難さ、特に「死」という不可避な終焉を前にしたときの、生にしがみつく本能と、苦痛からの解放を求める願望との間の葛藤を見事に描き出しています。

この問いかけは、現代を生きる私たち自身の人生観にも深く響きます。私たちは日々の生活の中で、大小さまざまな選択を迫られます。その選択は、常に「To do, or or not to do」という形をとりますが、その根底には常に「To be, or not to be」、すなわち、どのような存在でありたいか、あるいはどのような生を送りたいかという問いが横たわっています。『ハムレット』は、この普遍的な問いを通して、私たちが自身の生の意味や価値を、自身の選択や行動を通してどのように形作っていくのかを考えさせるのです。死を意識することは、限られた生の中で、私たちが何を選び、どのように生きるべきなのかを真剣に問い直す契機となります。

死が照らし出す人間の本質と限界

『ハムレット』に描かれる死は、登場人物たちの人間の本質、その限界をも露呈させます。クローディアスは、罪の意識に苦しみながらも、その地位や欲望のために懺悔しきれない自身の限界に直面します。レアティーズは、父と妹の死によって復讐の念に駆られ、手段を選ばなくなる人間の脆さを晒します。ハムレット自身も、行動への遅延と内省の果てに、多くの犠牲を生み、自身の破滅へと向かっていきます。

死という究極の出来事を前にしたとき、人間の偽りや建前は剥がされ、真の欲望、恐れ、愛憎といった剥き出しの感情が露わになります。それは、私たちがどれほど理性や道徳で自身を律しようとしても、死という抗いがたい現実の前では、その努力が時に無力となる可能性を示唆しています。同時に、死は残された者たちに、失われた存在の価値や、生前に為されるべきだったことへの後悔、あるいは新たな生への決意といった、深い省察を促します。

結論:『ハムレット』が問いかける生と死の普遍性

シェイクスピアの『ハムレット』は、多様な「死」の描写と「生きるべきか、死ぬべきか」という普遍的な問いを通して、人間の生の意味、存在の不確かさ、そして選択の重みを深く問い直す作品です。劇中に描かれる悲劇的な結末は、人間の限界や運命の残酷さを示唆する一方で、その問いかけは、時代を超えて私たちの心に響き続けます。

『ハムレット』が描く死は、単なる物語の終結ではなく、生そのものを強く意識させるための装置として機能しています。死が不可避であるならば、私たちはどのように生きるべきなのか。苦悩や不確実性に満ちた生を、どのように受け止め、どのように自身の存在を確立していくのか。「To be, or not to be」という問いは、劇場の舞台を離れ、読者である私たち自身の内面に深く突き刺さります。作品を読むことは、自身の人生における様々な選択、そして限りある生をどのように生きるかという問いについて、深く内省する機会を与えてくれるのです。それは、作品が描く悲劇性を超えて、私たち自身の生への向き合い方を問い直し、より深く生きるための普遍的な示唆を提供していると言えるでしょう。