作品に宿る命

芥川龍之介『羅生門』論:羅生門の死体が問い直す生と道徳の境界

Tags: 芥川龍之介, 羅生門, 死生観, 人間の本質, 道徳

芥川龍之介の短編『羅生門』は、飢饉や天変地異によって荒廃し、放置された死体が累々と横たわる羅生門という場所を舞台に、一人の下人の心理と行動の変化を描いています。この作品における「死」は、単なる物語の背景や登場人物の末路として描かれるだけでなく、人間の生や道徳の根本に鋭く切り込む、極めて重要な要素となっています。本稿では、『羅生門』に描かれる死とその周辺の描写が、私たち読者の人生観にどのような問いかけをもたらすのかを考察いたします。

羅生門という「死の空間」が示すもの

物語の舞台となる羅生門は、もはや人通りの途絶えた、荒れ果てた場所として描かれています。そこに雨宿りする下人は、仕えていた主人から暇を出され、飢え死にするか盗人になるかの瀬戸際に立たされています。羅生門は、文字通り「生」の営みが停滞し、「死」の気配が濃厚に漂う空間です。しかも、そこに横たわる死体は、単なる死体ではなく、既に葬る者もなく打ち捨てられた、価値を失った物として存在しています。この、放置された死体の存在は、当時の社会が抱える極度の困窮と混乱を象徴すると同時に、人間の生が容易に無価値な「物」となりうるという、厳しい現実を突きつけます。羅生門という空間そのものが、生と死、そして社会秩序の崩壊を体現しており、その中で物語は展開していきます。

死体と老婆の行為が暴き出す人間の「生」の本能

物語の核心は、下人が羅生門の楼上で目撃する光景にあります。そこには、多数の死体が転がっており、その中で一人の老婆が死体から髪の毛を一本ずつ抜いているのです。この行為は、倫理や道徳といった観点からは到底受け入れられないものですが、老婆は飢えをしのぐために鬘(かつら)の材料として死体の髪を利用していることが明かされます。

老婆は、死体の髪を抜く行為の理由を「こうしなければ、飢え死にをするのである。しかたがないことである。」と語ります。さらに、かつて自分が生きていくために蛇の干物を偽って売っていたことを告白し、「それもやはりしかたがないこと」だったと付け加えます。ここでの老婆の論理は、まさに「生きるためには、どんな卑劣なことでも、どんな非道徳的なことでも許される」という、極限状態における人間の本能的な「生」への執着を剥き出しにしています。死体が放置されるほどの社会の崩壊の中で、生き残るための手段は、もはや道徳規範の外に求めざるを得なくなっているのです。老婆の行為と論理は、死を前にした「生」がいかに強く、そして時に残酷な形で現れるかを示しています。死体はここでは、生者が生きるための手段として利用される存在、という皮肉な役割を担っています。

下人の変貌:「死」の淵から道徳の境界線へ

この老婆の行為と論理に触れた下人の心理は劇的に変化します。飢え死にするか盗人になるかで迷っていた彼は、老婆の話を聞き、「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、飢え死にをする身なのだ。」と老婆の着物を剥ぎ取り、闇の中へ姿を消します。これは、下人が老婆の論理を受容し、自らもまた「生きるためには非道徳的な行為も許される」という側に踏み込んだ瞬間です。

下人は、羅生門の楼上という、生と死、そして社会規範から隔絶された場所で、人間の最も剥き出しの「生」の現実を目の当たりにし、自身の道徳的な境界線を容易に超えてしまいます。彼の変貌は、飢え死という差し迫った「死」の脅威が、人間の理性や道徳観をいかに簡単に崩壊させてしまうかを示唆しています。生きるか死ぬかという究極の二者択一において、多くの人間は生存を選び、そのために道徳を相対化、あるいは放棄してしまう可能性があることを、芥川は鋭く描き出しているのです。羅生門に放置された死体は、単なる物言わぬ屍ではなく、生き残った人間に道徳的な選択を迫り、その本質を暴き出す触媒として機能していると言えるでしょう。

『羅生門』が人生観に投げかける普遍的な問い

『羅生門』は、極限状況における人間の行動を通して、私たちに多くの問いを投げかけます。飢えや死といった生存の危機に直面したとき、人間はどこまで道徳を守り続けられるのでしょうか。あるいは、道徳とは、衣食足りた状況でのみ成り立つ虚飾に過ぎないのでしょうか。老婆の「しかたがないこと」という言葉は、生きる上での必要悪をどこまで許容できるのか、という普遍的な問いを突きつけます。

この作品は、死が身近にある世界において、人間の生がいかに脆く、同時に生存本能がいかに強いかを描写することで、私たちの持つ道徳観や倫理観が、実は極めて不安定な基盤の上に成り立っている可能性を示唆しています。そして、自分自身が下人や老婆のような状況に置かれたとき、どのような選択をするだろうか、という内省を促します。羅生門に転がる死体は、かつて生きていた人々であり、いつか自分もそうなる可能性のある存在です。その死体の上で繰り広げられる生者の営みは、人間の尊厳や価値といったものを根底から揺さぶります。

『羅生門』は、死そのものの恐怖を描くというよりは、死が日常化した世界、死が隣り合わせにある状況で露呈する人間のエゴイズムと、それが道徳規範にいかに作用するかを描いた作品です。この物語を読むことは、私たち自身の生存への執着、他者との関係性、そして社会的な道徳といったものが、いかに危ういバランスの上に成り立っているのかを再認識し、自己の人生観における道徳の位置づけについて深く考え直すきっかけとなるでしょう。死という避けられない運命と向き合うとき、人間は生にどう執着し、どのような選択をするのか。『羅生門』は、その根源的な問いを、羅生門の荒涼たる風景と死体の存在をもって、静かに、しかし力強く私たちに投げかけ続けているのです。